喉元過ぎることなんて…本当はきっとない。当事者でない者が心得ておくべきこと。

未来拓く、みうらひらくです。

熊本地震の発生から2週間が経過しました。

報道に割かれる割合は、日を追うごとに明らかに少なくなっています。

それ自体は当然といえば当然。

あえて言いますが…どんなに大きな災害、事件、問題が起こったとしても…やがて時とともに記憶が風化していくことは”事実”です。

そしてそれは語弊を恐れず言えば、きっと必要なことでもあるのだと思います。

人は、喉元過ぎれば熱さを忘れるものです。

ただ最近、情報の量が多過ぎて、流れるスピードが速過ぎて…あまりにも忘れる速度が加速していませんでしょうか?

それも含めて、個人の自由であると考えています。

直接関係ないけど、忘れられる権利ってのも話題になりましたね。

忘れたい人は忘れたら良いし、忘れたくない人は覚えていたら良いだけのこと。

しかし最も大切なことは、当事者の気持ちを思いやること。

私はそう思うのです。

当事者でない者が、当事者の気持ちを完全に理解することはできません。

それでも、想像力を働かせることはできる。

裏を返せば、当事者でない者には結局それしかできない。

当事者が上げてくれた声が、とても大きな意味を持つのはそれゆえです。

何か大きな問題が起こった時…どうか当事者の立場をみずからに置き換えて想像してみてください。

世間において風化することがあっても、当事者の中で風化することは…問題が大きくあればあるほど、きっとないと言えるでしょう。

yahho

東日本大震災の時もそうでしたが、今回も目と耳を疑うような報道が散見されました。

多くの人が困っているその状況に追い討ちをかけるような、そんな最低の行為に及ぶ輩がいることも…残念ながら確かです。

こうした類の犯罪には、通常時のそれよりも重い刑罰を課すべきだという声もありました…心情的には同感です。

しかし…心情的に同感であることと、実際にどう対処していくべきかはまた別の話。

冷静さが求められる有事の際こそ、本来は政治や法がその役割を果たすべき時です。

熱意を持って行動していくことは、それ自体は基本的には悪いことではありません。

しかし目的が何であるかを見極めた上で、あくまでも冷静に対処するべく努めることが求められる際には逆効果になり得ます。

基本的には何事も判断は個人の自由であるべき。

それがいつも私が考えている方向性ではありますが、自由を履き違えてはいけないことは肝に銘じています。

人として大切なことを捨ててしまった者に、自由を追求する資格などあるはずがありません。

義務とか権利とかという話になると小難しくなりますが、突き詰めれば本当は簡単なことだと思うのです。

jyuuyou

一番最初にくるのは、やはり教育。

政治よりも何よりも、教育が基本中の基本だと感じることが最近特に多いです。

本人の資質を生かすも殺すも、教育によるところが大きいのは間違いありません。

たとえ学校という場でなくとも…例えば日々の中で様々な媒体から情報を得ることも、一種の教育の形という見方が成立します。

先日取り上げた世襲の話でも、教育の重要性を再認識しました。

人は一生涯、学びつつ生きていくのです。

時には間違うだろうし、感情が先走ることは私自身よくあります。

この先も学びながら成長していきます!!

ですが、私を教育してくれた両親、お世話になった先生方、友人知人、家族に親類…関わり合った全ての人々や、読んできた書籍などの得てきた情報全てから導き出された、生きる上で最も大切にしていること。

”おもいやり”の感情です。

簡単なようで超絶に難しい…ありふれたこの感情だけは、これからもずっと持ち続けていくつもりですぞ。

その思いを胸に、できることをやるのみです!!

また明日!!

Pocket
LINEで送る

三浦 ひらく

三浦 ひらく -PROFILE-

世界を暮らしやすく楽しく変えるため、相棒ひらくマと一歩ずつでも現状改善していくために日夜ハゲむ、1978年生まれの岡山県津山市議会議員。選択肢の多い社会を目指し、政治も手段の一つと捉え、地域振興、多様性理解促進、生きづらさ解消、表現の自由を守るための活動、インフルエンザ脳症撲滅、臓器移植意思表示推奨などをライフワークとして活動している。

コメント