泣いてもイイ。悲しみの涙さえポジティブに変えるための処方箋。

未来拓く、みうらひらくです。
泣き虫、みうらひらくです。

泣くという行為が持つ意味は大きい。悲しい時だけじゃない。嬉しくても悔しくても、感動しても涙は出てくる。玉ねぎ切っても、アクビしても出る。

玉ねぎみじん切り大会?大のオトナが人前で堂々と涙を流す方法。

2017.09.20

こんなにも様々な行為に伴って出てくるものは珍しい。汗だって基本動かないと出てこないが、涙は物理的要因のみならず心の動きだけで溢れ出ることもあるのだ。

健康の町を標榜する鏡野町のプロモーションを職務とする俺としては、泣くという方向性から攻めるのもアリだと考えている。精神衛生面の健康こそ、医者でもない俺が維持あるいは改善に直接的に関われる分野だろう。

涙は悲しいシーンに付き物であるため、基本的にネガティブに捉えられがち。だがそもそも、悲しい時に泣くことは心のバランスを取るために必要な行為であると捉えられる。

つまり涙を流すことは、実際に悲しみを洗い流しているってことなのだ。だからこそ泣けばスッキリするのである。

最近では涙活などという言葉もある。婚活とか就活とか終活…何でもかんでも○活って言えば良いものではないにせよ…一定数泣きたがっている人がいるのは間違いない。だからこそ、必ず泣ける〇〇などという謳い文句が冠された映画や本がなくなることはないのだ。俺などは必ず泣いてしまう完全なカモである。

ただ、セラピー的企画の中には詐欺同然のものが紛れ込んでいる可能性が決して低くないのも事実。効果の個人差と実感しにくいという性質を隠れみのに、タチの悪い粗悪品が紛れ込んでいることあるのだ。まさに玉石混淆。本物を見抜く目が要求されるが、簡単なことではない。

だったら偽物も含めて、全て自由化しちゃうってのはどうだい?

実はこれは特別なことではない。放っておいても現実に世界の状況はそうなっている。無論、犯罪行為や悪意を擁護推奨する意図はない。ただ市場原理に任せるということだ。活動フィールドとして、あるエリアを自由に使って良いですよというお墨付きを与えるだけである。

これをやりたい。

今この瞬間も…おそらく世界のどこかで、粗悪品により騙され涙した人が存在している。騙された人にも責任がある場合もあるだろうし、気の毒としか言いようがない場合もある。だが確実なのは、淘汰されるべき悪が存在するということ。それはモノである場合もあるだろう。コトである場合もあるだろう。そしてヒトである場合すらあるだろう。

悪をあぶり出すために、あえて自由化するっていう選択肢はどうだい?

この情報社会、悪い情報はすぐに共有される(良い情報は意外に共有されないが)。悪を淘汰するためには、悪の存在を明らかにして、白日のもとに晒すのが一番手っ取り早くないか?

涙を流すようなことがあったとしよう。泣いて良いのだ。ただ泣いた後、その理由を見つめ直すのだ。大切なのは泣き寝入りしないこと。そうすればきっと、良い方向を見据えられる。

本日はこんなところで。また明日!

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