未来拓く、みうらひらくです。
津山市議会議員、三浦ひらくです。
まず、私にしては珍しくランチをいただいた際のお話を少し。
お腹も心も満足のひととき、仲間の新たなチャレンジを祝う
昼から贅沢に寿司タイム!
昨日のエントリーでも触れた、高校の一つ上の先輩で元鏡野町議会副議長でもある、PORT ART&DESIGN TSUYAMAの館長・飯綱洋平さんと、高校の同級生であり、現在は陶芸家として全国的に活躍している森永淳俊さんという…かつて、私が鏡野町観光協会にお世話になっていた頃に様々な企画でご一緒させていただいたリスペクトする二人。何年ぶりになるのかわからないくらい久々に、三人揃って会ったという感じです。
仲が良いのか悪いのか。

2017年11月のイベント時に皆で撮った写真から無理やり切り抜いていた写真以外に三人で撮った写真が一枚もないって書いているのが、2018年4月のブログ記事。
懐かしいなぁと過去エントリーを読み返してみたら…相変わらずメチャクチャなこと書いていて、「さすが俺!」ってなってしまいました。悪い意味でね…。
昨日の記事で本人のFacebook投稿を埋め込んで触れたように…飯綱さんはさらなるステップアップのため、別のステージでの挑戦を始められることを公表されています。正直なところを言えば個人的には残念な思いや淋しい気持ちもあるわけですが、ご本人が決断されたことです。
そして、この三人はそれぞれ、メチャクチャ頑固なんですよねぇ…。
三人でイベント内容など相談している際にも、合意形成に時間が掛かりまくることが何度もありましたから…それはそれぞれ、よく知っています。だからこそ、自分自身のことについて本人が決めた以上は周囲がグダグダ言うことではないという理解が共通認識として存在し、しばらくなかなか会えなくなるであろう飯綱さんの門出を祝うため…それぞれに超絶忙しいタイミングではあったのですが、何とか時間を合わせてランチだけでも一緒に食べようぜってことで某日某所にて集まった次第。
かつて、PORT ART&DESIGN TSUYAMAがスタートする直前や直後に、色々と三人で相談したメモリアルな場所でもあった某所については、もしかしたら写真でバレるかもしれませんが、多分7年ぶりくらいに三人で行ったんじゃないのかなと思います。ここがランチ会場となったのは必然だったかもしれません。
大学院へ進学され、公共政策…とりわけ文化政策を専門的に学ばれるという飯綱さんの、ますますの活躍を願っています!
夕刻からは岡山市へ向かいました。
臓器移植をめぐる人々の葛藤と、死のはざまで揺れる想いを描いた河瀨直美監督の映画作品…「たしかにあった幻」を鑑賞するためです。
移植医療というテーマは、決して軽く扱えるものではありません。そして先日も書きましたが…私自身、これまでも繰り返し発信してきたように、臓器提供はあくまで一つの選択肢であって、誰かに何かを強いるための話ではないのです。ただ、だからこそ…私たちには正しく知り、考え、そして自分自身の問題として向き合う必要があるのだと思っています。
”向き合うこと”から逃げさせてくれない物語でした。河瀨直美監督とは昨年の臓器移植推進国民大会でご一緒させていただき、その後にもオンライン対談させていただくなどのご縁もいただいていましたので…拝見しないわけにはいかないと思っていましたが、すっかり遅くなりました。
以下、若干のネタバレ的感想を綴ります。
命を救う医療の裏側にある、あまりにも重い現実
臓器移植と聞くと、どうしても「助かって良かった」「命が繋がった」という結果に目が向きがちです。もちろん、それは間違いなく尊いこと。しかし描かれていたのは、美しい言葉だけでは到底包み切れない現実でした。
まず突きつけられたのは、医療現場の厳しさ。
現場を支えるベテランの献身、倒れるわけにはいかないという責任感、何とか今日も回さねばならないという覚悟。その一方で、若い世代からは「このやり方では続かない」「一人に依存した現場では未来がない」という切実な声が上がる。もしかしたらこれは問題提起として、医療現場だけに限ったものではないのかもしれないなとも感じました。
誰かが頑張り過ぎることで成り立っている現場は往々にして、制度としてはかなり危うい。
「人数を増やせばいい」という簡単な話ではありません。もちろん人手も足りないわけですが…時間もなく、今を回すだけで精一杯な状況の中では、変わらなければいけないと皆がわかっていても、変える余力そのものがなくなっていくものです。このあたりの描写は、移植医療の特殊な現場に限った話ではなく、社会全体が抱えている課題にも重なって見えました。
”助かってほしい”と”誰かの死を願いたくはない”の間で
作品の中で胸に残った表現の一つが、ドナーを待つレシピエント側の複雑な感情です。移植を待つ患者やその家族は、もちろん生きたいし、生きてほしい…しかしながら、移植医療は構造上、どうしても「誰かの死」と切り離せないことも事実。
だからこそ、”もちろん待っているけれど…ドナーが現れてほしいと願っているわけではない”というアンビバレントな表現が、巧みながらもどうしようもなく重く感じられました。これは私自身がドナー家族として何人ものレシピエント、あるいはそのご家族とも接してきた中で…本当に、その通りだと思うような難しいところを描かれていたと感じました。
救いが他者の喪失の上に成り立つことは、頭では理解していても、なかなか感情が追いつくわけではなく…ただ喜べばいい、とはならない。100%の笑顔で受け止めきれない。助かったことへの感謝と同時に、申し訳なさや後ろめたさ、場合によっては「もっと長く待っている人がいたのではないか」という順番への遠慮まで生まれてしまう。これは実際に私自身も、伺ったことがある声です。
「そんな風に思っていただかなくても大丈夫!」
ドナー家族の立場で私の思いや経験をお話しさせていただくことで、レシピエントの皆さまから涙ながらに感謝されたことは一度や二度ではないのです。ある意味ではそれゆえに私がドナー家族として話をする活動を継続させていただいているところすらあります。5歳でインフルエンザ脳症により亡くなった後に臓器提供した愛娘・愛來(あいく・愛称くーちゃん)の話を聞いていただくことで、命が失われることを未然に防ぐだけでなく、不必要な悲しみや苦しみで理不尽に苦しむことを世界から一つでも減らしていきたいと願っているからです。ただ、この感情のねじれには、理屈では片づけられないこともあるのかなとも思います。
そして、まさにそこにこそ、このテーマの本質の一つがあるのかもしれません。
社会の中で、移植がなお重く受け止められる理由
作品は、日本における死生観にも深く切り込んでいました。存じ上げている皆さまが何人も出演されていた議論のシーンでは、欧州などで、臓器移植が「ギフト・オブ・ライフ」、つまり”命の贈り物”として語られることがある点などにも触れられていました。確かに、それは一つの真実でしょうが、日本ではその言葉だけでは受け止め切れない現実があります。脳死イコール人の死とならない我が国においては、どうしても心の抵抗が残るのです。
しかも、私たちの社会には”人に迷惑を掛けてはいけない”という感覚も強く根付いています。
そのため、”自分が生きるために誰かの臓器をもらった”という事実が、感謝だけでなく罪悪感にも繋がりやすいという現実が描かれているように感じました。羞恥の心と似たような感覚で、病気であること自体を隠したい、移植を受けたことを周囲に知られたくない、そんな思いが生じるのも無理はないことなのかもしれません。ここに話を広げると長くなり過ぎるので控えますが、作品のもう一つの大きなテーマであるように感じた”失踪”についても、発生する心のメカニズムには似たようなところがあるケースも少なくないはずだと、個人的には考えています。
本来、命を繋ぐための医療にアクセスした人や家族が、心ない言葉にさらされるようなことはあってはならない。
それでも現実には偏見、誤解があるわけです。この作品は、そうした社会の空気そのものを静かに、しかし確実に炙り出していたように感じました。
死は終わりではないのかもしれない、という感覚
これはもちろん、簡単にロマンチックに語るべき話ではないと思いますが、”命のリレー”という言葉で表現されることも多い臓器提供、臓器移植は結果として…誰かの命の一部が、別の誰かの中で受け継がれていくという事実を示してもいるわけです。そこに触れたとき、人は”死”を断絶だけのものとしては見られなくなるのかもしれません。だからこそ、この作品には一方的な「移植は素晴らしい」というメッセージは込められていないと感じましたし、逆に重さばかりを強調して立ち止まるわけでもなく…そうした両方、様々な気持ちや矛盾を抱えたまま、人間は生きていくのだという”人の生き方”を描いていたように思います。
嬉しいのに苦しい。
感謝しているのに申し訳ない。
前を向きたいのに、簡単には割り切れない。
こうした矛盾を矛盾のまま受け止めることが、このテーマに向き合う第一歩なのかもしれないと思わされました。
さらにストーリーを印象的にしているのが、失踪した青年をめぐる家族の物語です。このエピソードは、移植医療の話から少し距離があるようにも思われますが…この作品全体を貫く”喪失”というテーマと深く繋がっていたように思っています。
大切な人が突然いなくなること。
その不在を抱えたまま、それでも日々は続いていくこと。
もう会えないかもしれない、それでもどこかで再会を願ってしまうこと。
人は、失ったものを全てキッチリ整理して生きていけるわけではありません。
人生の中では、失ってしまった誰かや何かを心の中でずっと引きずり続けながら…それでも生活を営み、別の誰かを守り、ときには自分自身を納得させながら進んでいくことが求められることや、生きていく上で必要になるシーンもあるのではないでしょうか。
臓器移植の話もまた喪失を避けて通れないからこそ、この失踪をめぐるストーリーが作品全体に奥行きを与えていたのだと思います。
大きなテーマの周りにある、ささやかな日常の尊さ
重いテーマばかりを前面に押し出すことなく、日常の小さな幸せのような描写があるからこそ、生と死の話が遠い概念ではなく、私たち自身の暮らしの延長線上にあるものとして輪郭を際立てながら迫ってくるのです。
この物語は特別な誰かや病院の中だけの話でもなければ…制度や法律の問題だけで済むような話でもない。
家族のこと、仕事のこと、地域のこと、価値観のこと…私たちが日々の中で向き合っているもの全部と繋がっているのです。当たり前のことを、この作品はあらためて思い出させてくれたと思います。
知ること、考えること、話し合うことを止めないために
臓器移植に賛成か反対か、単純に二択で語れるテーマではないのです。脳死をどう捉えるのか、臓器提供をどう考えるのか、家族とどんな話をしておくのか…どれも簡単に答えが出るものではないでしょう。
だからこそ、考えることをやめないことが大切。
自分はどう考えるのか。
家族はどう思うのか。
もしもの時に、何を選びたいのか。
あるいは、まだ決められないのか。
それでも全然OKです。
大事なのは何も知らないまま、何も話さないままにしないこと!
「たしかにあった幻」は、そのためのキッカケを与えてくれる物語でした。命をめぐる問題の重さに押し潰されそうになりながらも、それでも人は誰かを思い、繋がり、迷いながらも前へと進んでいく。そんな人間の弱さと強さの両方が、静かに、しかし深く胸に残る形で描かれた作品だと思います。
臓器提供・臓器移植は、あくまでも一つの選択肢。
ただ選択肢として存在する以上、正しく知っておくことには意味があるのです。自分とは関係のない話だと遠ざけずに、立ち止まって考えてみる価値は”絶対に”ある…と断言しておきます。
本日はこんなところで。それでは、また明日!






