未来拓く、みうらひらくです。
津山市議会議員、三浦ひらくです。
今日は昨日のエントリーの続き…と言うか、深掘り的な内容です。大阪市中央公会堂で開催された臓器移植推進国民大会、メインステージでのプログラムとは別に、一般には非公開で進められた研修会の内容の一部も含めて、共有させていただきます。
上に貼り付けた記事で書いているように、10月は「臓器移植普及推進月間」です。毎年この時期、日本中のどこかの都道府県で開催される一大イベントとして、臓器移植推進国民大会があるわけですが…その中で関連企画として行われた、医療従事者向けの研修会に、メインステージでのトークセッション前に、まずは登壇させていただいたというイメージです。
私が話させていただいな内容を超ザックリと言ってしまえば…「命の最前線で、ドナーとその家族にどう向き合うか?」を考えていただくためのキッカケになればということでした。だけどこれは、簡単な話ではありません。むしろ、その“簡単じゃなさ”こそが一番伝えたいことだったと言えるかもしれません。
「助けたい」と「受け止める」の間にあるもの
私自身は医療者ではないわけですが…愛娘・愛來(あいく・愛称くーちゃん)がインフルエンザ脳症に倒れ、闘病していた約1ヶ月の間、毎日多くの時間を費やして通い続けたEICU(救急集中治療室)の中、そしてその外での皆さまのお気づかいや仕事の様子、そして彼女が亡くなった後に、数多く接することになった日本中の皆さまとの交流を経て…そしてコロナ禍という未曾有の事態も経験したことで、医療に従事される皆さまに対して、本当に心からの敬意を抱いています。
もちろん、本当の意味で理解していると言えないことは承知の上で、それでも書きますが…集中治療の現場は、本当にギリギリの場所です。医師や看護師、医療者の皆さまはまず、目の前の命を助けること…つまり救命に全力を尽くしてくださるわけです。これはある意味で当然と言えることかもしれませんが、私自身は啓発活動に臨む中で、一般の多くの皆さまの中には、臓器提供・臓器移植について考える際に、まずこの大前提を知らないと言うか…頭から抜けている方々が、実は案外と多いのではないかという印象を持っています。
患者の家族は、助けようと懸命に努力してくださった命がどうしても救われないことが確定した際に初めて、臓器提供という選択肢に向き合うのです。
このメチャクチャ重要なポイントを、河瀨監督と小西さんとのトークセッションの中でも、もっとハッキリと端的にわかりやすく示してくべきだったと、強く反省しています。これはやっぱりお二人よりも、私が言うべきポイントだったように感じているからです。
今回の国民大会、研修会でご一緒させていただいた浜松医科大学の渥美先生は日本移植会議の第一回の公開シンポジウムで2年前にご一緒させていただいておりました方でしたし、閉会挨拶をされた現在の日本臓器移植ネットワークの理事長である横田先生は、当該シンポジウムの際に私自身が登壇させていただいたセッションの司会進行役も務めておられた方でもありました。
先日も津山市議会の総務文教委員会視察で先で訪問させていただいた福岡県古賀市の田辺市長は政治家はネットワークだと言われていますが、まさに自分自身もそのように感じています。そして政治家に限らず…こうした活動もまた、人との繋がりが非常に重要で、個人個人のチカラは大きくなくとも、皆でチカラを合わせていくことで、効果・成果をいくらでも大きくしていくことができる可能性があると思うわけです。
可能性と言えば…どんな状況であろうとも「助かる可能性が僅かでもあるなら救命をあきらめない」というのが救命現場の当たり前の姿勢であり、それこそがご自身の矜持なのだという話を以前、現場で活躍される先生から伺ったことがあります。
しかしその、一方で…どれだけ医療やテクノロジーが進歩しようとも、たとえ幼くても助からない、助けられない命が厳然と存在するという、目を逸せない現実もあるわけです。
患者自身の救命の可能性が潰えた…そこでいきなり「臓器提供という選択肢があります」と家族に説明する…みたいな場面を想像される方も、中にはおられるかもしれません。でも実際は当然ながら、そんな単純な話ではないのです。
大切な誰かが助からない。
そんな厳しい事実に向き合う家族の精神状態…何となく理解いただけると思います。そもそも、多くの人はまともにものを考えられるような精神状態ではないわけです。突然にそうした事態に直面する場合はもちろん、ある程度の予想があったとしても…やっぱり、心が付いていかないどころか、比喩でなく足元がグラグラするような状態になる方だっておられるわけです。それなのに「決めてください」と迫られることがある。これは正直、それを伝える側にも伝えられる側にもあまりにも酷な話ではないでしょうか。
だからこそ、“いきなり選択を迫る”のではなく、“考えられる土台をなるべく早く一緒につくる”ことこそが大事なんだ、と私はお話させていただきました。
大切なのは「家族ケアを医療の最初から組み込むこと」
そうした前置きはいつも伝えていますが、私がお話させていただいたことはあくまでも私自身の主観であり、私はドナー家族を代表する立場にもありません。ただ今回、渥美先生が私の話を受けて、趣旨も汲み取ってくださり、素晴らしい補完をしてくださったように感じています。
ご自身が現地で学ばれた臓器提供・移植で世界的にも成果を上げているスペインの仕組み、考え方などについてのお話などを、非常に興味深く拝聴しました。夜勤明けでお疲れのところ、大変ご多忙なスケジュールの中を駆けつけてくださった先生とは開会前などにもたくさんのお話をさせていただき、ご厚意により、発表に用いられたスライドなども頂戴していますが、非公開の研修会ですので、資料の共有は控えておきます。ただ、こうした話こそ一般の皆さまに聞いていただきたいなと思うような内容で、公開の形でなされていたらと感じたのが正直なところ…それくらい、響くお話でした。
命を救うために万策を講じる、これは日本でも当然に行われていることです。ただ、それでも回復が見込めないと決まった段階(脳死に至った段階…これは日本以外の多くの国ではそのまま”死”を意味します)で、患者の状態を安定的に管理するように努め、その上で、家族に丁寧に状況を伝え、「これからどうしていくのが一番いいか」を一緒に考える時間をつくるということの重要性を学ばれたというお話がありました。
つまりスペインでは、臓器提供の話は“突然の提案”ではなく、“家族が現実を受け止めていくプロセスの一部”として扱われているのだと理解しました。
ここで重要なのは「家族のケアを最優先にする」という発想ではないかと感じました。
回復が難しいと分かった時点で、医療は家族にも真摯に真っ直ぐ向き合うことが重要だという話を、いつもさせていただいているつもりです。私たち家族の場合は、色々とありましたが…そうしてくださったことが最悪な状況の中での最善の結果に繋がったと感じています。家族が深い悲しみに向き合っている中で、そこにまず伴走するところから始める…これが、単なる優しさではなく、医療行為そのものだと考えられているということではないかと思います。
私自身、伴走支援の大切さは日々実感しています。
もちろん、それは医療現場の話ではありませんが…口先だけでない本当の伴走というものが、仕組みとしてしっかりと確立しているような制度があれば、どんな世界の話であろうと、大きな状況改善に繋がるのではないかと改めて思いました。
どんな現場も“誰かの善意”だけで回すのは限界
渥美先生の話の中で最も印象深かったのは、チームビルディングについての話でした。一般化した上で超ザックリとまとめると…こういうことだと理解しています。
重責を一人に背負わせるのは無理だからチームでやる、そしてそれを病院の“制度”にしていく。
こうした流れがヨーロッパ等では当たり前のようにできているということなのかなと思います。それに対して日本は、まだ「誰か熱い人が頑張っている現場がある」くらいのレベルにとどまってしまっているような部分が、正直なところあるのではないかなぁ…と、そのごく一部に触れたことがあるだけだとは自覚しているものの、思うところです。
これは、現場の医療者を守る意味でもすごく大切な話だと思っています。医療従事者の方、あるいはすでに現場を離れてしまった方々から個人的に連絡をいただく機会も、少なくありません。その内容には、行政職員や教育現場、介護や保育の現場の声などとも重なるイメージが多くあります。
責任や負担を背負わせ過ぎない、心のダメージまで丸抱えさせないような制度や仕組みをつくっていくことは、その権限を持つ者の責務です。
「時間をつくる」という、最も大変で最も尊い仕事
家族には、考える時間が必要です。ただ、救急医療の現場には、本当に時間がない。そんな中でも、振り返ってみた際に時間を持たせてくれたと感じられるワンクッションがあるかどうかって、とても大事だと思うわけです。実際にはそもそもそんなことは有り得ないはずですが「病院に押し切られた」ような記憶になるのか、「ものすごくつらかったけど、自分たちで決めた」になるのか…後悔が残るかどうかは、そこにかかっていると言っても良いくらいに考えます。
私自身正直なところ「冷静に判断しました」なんて、とても言えません。
それでも「その選択を後悔せず受け止められている」と今の私が真っ直ぐに言えるのは、主治医的存在だった先生をはじめとした医療者の皆さまが真正面から向き合ってくれたからです。“押しつけ”ではなく、“あなたたちの家族なら、こういう考え方もできるんじゃないだろうか”という形で、こちらの気持ちを尊重しながら、そっと提案してくださった人がいた。最後の最後まで、ただ傍にいてくださった人がいた。
そういう人たちがいたからこそ、今の私がいるのです。
決断を後悔しないように思わせてくれることって、本当に大きいこと…これがないと、家族はずっと「自分は間違っていたかもしれない」「あの時もっと何かできたんじゃないか」と自分を責め続けることになるかもしれない。
だからこそ私も、自分が受けたような優しさを感じてもらえるような仕事をしたいと思って、日々の業務に向き合っています。
そして渥美先生が言及されたチームビルディングの重要性…熱意のある医師や看護師の個人技だけではなく、病院と地域の仕組みにしていかないと続かないし、守れないという話はそのまま、病院のあり方だけでなく、自治体運営のあり方として先日の古賀市や福津市で学んできた”共創”の考え方そのものであるように感じました。
「押しつける医療」ではなく「共に考える医療」へ
臓器提供、臓器移植は”正しい or 正しくない”という話ではないのです。
大事なのはきっと、家族が「自分たちで考えた」「ちゃんとわかって決めた」「後悔していない」と思えることではないかと私は考えます。もちろん、これに対しての異論や違和感があったって良いわけです。ただ個人的にはそうした状況を実現していくためには、少なくとも”誰か”が“傍で寄り添っていてくれること”が必要不可欠で、そしてその支えが、偶然そこにいた特定の誰か一人の善意に頼らなくても得られるような社会にしていくことが大切だと思います。これこそが臓器移植推進に必要な土台でしょう。
そして私の目指す”優しい社会”の実現のためにも不可欠な考え方。
数字や制度の話はもちろん大切ですが、その前にあるのはいつだって人間同士の対話です。
患者と医療者の関係だけでなく、家族と医療者、そして家族同士など…それらの関係性の安定なく、臓器移植が“社会の文化”になることなど有り得ないでしょう。救急の現場でギリギリを支えてくださっている皆さまに、心から敬意と感謝をお伝えしたいです。そして私も当事者の一人として、ただ感謝するだけで終わらせず「じゃあ何が必要か?」を一緒に考え続けていきたいと思います。
本日はこんなところで。それでは、また明日!




