コンテストを透明化する方策。誰の作品かで判断するんじゃねぇ!

未来拓く、みうらひらくです。

ART OF LIFE、みうらひらくです。

 

 

美術館に行ったことがない人は、どれくらいいるだろう?

アートなんて興味ないぜ、食べられないからなっていう人もいる。

 

 

そりゃもちろん、自由である。

同様にアート自体も自由であるべきだ。

べき?

そんな表現すら、自由を制限している。

何をしたって良いし、しなくたって良い。

何を芸術と定義するかそれ自体も自由なのだから。

 

 

美術館に行ったことがある人なら理解できる話をしよう。

行ったことない人は想像力を働かせてみて。

 

 

多くの場合、美術館は常設で複数のアーティストによる作品を展示している。

◯◯展などと銘打って企画展をする場合もあるが、それはあくまでも期間を限定した話であることが前提。

だからだろうか。

ほぼ確実に、作品のすぐ傍に、作者の情報も展示してあるのだ。

 

 

あれ必要なのか?

「必要に決まっているだろう!」

多くの人たちの回答はそうだろう。

でも、本当にそうかなぁ?

 

 

作品自体よりも優先的に、誰の作品であるかを理解しようとしていないか?

 

 

そう、たとえそうであったとしても…それ自体も自由である。

どういう受け止め方をするかは人の勝手だからだ。

だけど…それを承知の上であえて言おう

 

 

俺はそれが気に入らねぇ!

 

 

作品は作品のクオリティーによってのみ評価されるべきだ!

 

 

べき?

ああ、べきだ。

 

 

どんなクソッタレが適当にチョチョイと生み出した作品であろうと、名作は名作。

 

 

どんな著名な大先生が心血を注いで完成させようと、駄作は駄作。

 

 

俺はそう思う。

 

 

誰が作ったかを大問題にする人、結構いるよね。

芸術の世界に限った話じゃない。

政治の世界でも同じ。

実は身近なシーンでもよくあること。

 

 

ちょっとイイ話があったとしよう。

知り合いが面白そうな話を持ってきた。

一枚噛んでみるか。

そう思ったのだが…そもそもの言い出しっぺや、舵取りしている人間が気に入らない相手だった時、君ならどうする?

 

 

俺の心象では、多くの人はそうした場合に躊躇する。

 

 

”ひと”で判断するわけだ。

それはやむを得ないと言えるだろう。

 

 

人間、最後には”ひと”で選ぶ。

少なくとも俺はそうだ。

全ての条件が同じだったとしたら…という意味のない仮定での話だが。

 

 

全ての条件を同じにすることは現実的には難しい。

だがコンテスト企画において、匿名性の担保は限りなく大きな一歩になるだろう。

なるべく作品のみで判断してもらいたいのです。

 

 

本日はこんなところで。

また明日!

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