未来拓く、みうらひらくです。
愛知県に降り立ったことがない、みうらひらくです。
昨年の愛知県の人権ポスターは秀逸だった。一年経った今でも鮮明に覚えている。是非チェックしていただきたい内容だ。
感銘を受けたので今年も期待していた。結論から言うと昨年ほどのインパクトはなかったが…主張自体は昨年以上に強い(ってか、テキストが多い)仕上がりだった。
今年も快く使用許可をいただいているので、ガッツリご紹介いたします。今回は手書き風の壁新聞的なデザイン。
制度があっても理解がないと意味がない。その通りだろう。そもそも理解が生まれた後に制度が確立されるという順序が普通だろう。皆の理解を得ていないのに制度を作ってしまうってのは、おかしな話だろうね。
当ブログでも散々引っ張ってくる毎度おなじみの統計ですな。13人に1人いると言われている性的少数者。全てを理解するのは難しくても思いやることはできる。自分自身に対してさえ、事実を隠さなくてはならないような世界に生きたいと思うかい?
まずは声を掛けることって手段には大賛成である。これはすなわち”ナンパする勇気”です。人権尊重の第一歩などという大それた表現でなくとも、自分の方から一歩歩み寄れば良いだけ。そもそも、いつ来るかわからない相手を待っているほど暇じゃないだろ?
同和問題は、同じ地域に暮らしていても全く感じないって人もいれば、とても繊細に感じる人もいて…その時点でやはりまだ現実に残っている問題だと思っている。差別解消を推進する法律の効力には疑問符が付くが、自分のこととなると戸惑う人が多いという事実に鑑みても、ある程度の強制力を伴った解決方法を用意しないと、簡単に消えることはないだろう。
異質なものを恐れ、好奇の目で見てしまうのは当然だと思う。ただそれを”排除”するか否かは全く別の話。このボーダーレス社会において、外国人であるという、ただそれだけの理由で排斥するのは全くもって不合理だ。どこの国にも善人も悪人もいる。国内全ての人は仲間だ的なこのポスターの内容に関しては違和感も残る。
誰にでも優しくするのは理想かもしれないが簡単ではない。優しくしない自由もある。攻撃的な発言が多いと思われがちな俺だが、本人的にはそうでもないと思っている。もちろん人権派を気取ろうなんて積もりはサラサラないが。
誹謗中傷、悪口の類は確かにいただけない。俺の中での”悪口”の定義は極めてシンプル。
面と向かって相手にぶつけられる言葉か否か。
言える言葉なら相手がいない場所で言っても構わないだろう。俺はそう思って発言している。本人に直接言えないような表現であるなら、それはただの陰口である。ダサいことこの上ない。
言いたいこと言える世の中にしていきましょうぜ!
本日はこんなところで。また明日!