未来拓く、みうらひらくです。
未来は今の積み重ね、みうらひらくです。
そして今は過去の積み重ね…”あたりまえ”のことだけど、繋がっているのです。
それぞれが独自に存在しているかのような表現が多く、何となく錯覚しちゃいがち。しかし過去も現在も未来も同じ時の流れの中で繋がっている時間であり、どの時間帯であってもやがて過去になり、一度は現在になり、かつては未来であったのです。人も同じ。
誰であっても生きている限り…赤子として生まれ、子ども時代があって、やがて子を育てる側の年代になり、老人と呼ばれる年齢になるのです。
老人に生まれついた人はいませんし、かつて子どもでなかった大人もいません。子どもが健やかに育てば…やがてその子は育てる側の年齢に達し、そして年を重ねておじーちゃん、おばーちゃんになっていく。それが人生です。
人生語るには若いかな?
子ども、若者、年寄り…そういった年齢別のカテゴリー分けは(自分自身よく用いますが)、本来は好ましいものではない基準かもしれません。
ジェネレーションギャップや世代間格差など現実に生じている開きにより、必要以上に対立構造を煽るやり方は政治の世界では散見される手法であり、自分自身今まで積極的に使ってきたやり方ですが、この”あたりまえ”のやり方も…実は望ましいものではなかったのかもしれないと思い始めています。
先日も書いたように、誰かを…あるいは特定の層を叩くことで得られるカタルシスを力の源とする政治は時代にそぐわなくなってきているのではないか…だからこそ政治離れが進んできているのではないかと思うのであります。
色んな人と会っていると、本当に皆が自分と違うことに驚きます。別に俺が特別って意味じゃなくて…会う人会う人、やっぱり全く別だって意味合いです。
でもそれって”超あたりまえ”の話。
”みんな違ってみんないい”って言葉自体は別にそんなに好きじゃない(なかなか実際みんないいと思えるわけがないのも”あたりまえ”だと思うから)んですが…でもみんな違うのは”あたりまえ”です。
みんな違ってあたりまえ。
個人的にはこれを事実として受け止める…認めることがあたらしい党の目指す”あたらしいあたりまえ”を切り拓いていくためのスタート地点だと考えているのです。
1人として同じ誰かと人生を送ってきた人間なんて存在しないわけで…それぞれ得手不得手があって、それぞれに自慢できる何かが絶対にある。
つまり相対している誰かは、自分自身が知らない何かを絶対に知っている相手なのです。
ちびっ子であれ、じーさんばーさんであれ、会話することの中にメチャメチャ素晴らしい気づきが含まれることも少なくない。
持つ持たないは自由ですが…敬意をもって接さない方が、どうかしてるぜ!
俺はそう思うんだよね。変化は一人では起こせない以上、なるべく多くの共感を得る必要があります。共感してくれる相手に敬意…というか広い意味での謝意を払わずして、継続的な支援を頂戴しようという方がおかしいってか、ずーずーしい。
”都合のいいあたりまえ”を淘汰していくことで…”健全なあたりまえ”を増やしましょ!
本日はこんなところで。また明日!