未来拓く、みうらひらくです。
砂の美術館について書いた、先日のエントリーで言いたかったこと。
それはハゲ云々ではありませんYO!!

歴史を振り返ってみても、芸術はアンタッチャブルな領域を表現することにこそ、その力を発揮してきた経緯があります。
政治的、あるいは宗教的な意図等をもって制作された作品の中には…どんな演説や写真、新聞記事などをも超越するインパクトをもって、世界中の人に訴えかけてくるものが実際にあります。
しかも時を越えてくるからね 、そういう超凄い作品というものは。
たとえばゲルニカ。
実物を見たことは一度もありませんが、最も見てみたい絵画作品として…もうずっと昔から、ある意味で憧れ続けてきています。

ピカソ好きってのもありますが…ゲルニカに興味が有り過ぎて、関連書籍(?)にまでジャケ買い的に手を出してしまうという…。
まぁ読書の秋ということでね。
ゲルニカはレプリカであれば、原寸大の精巧な作品を日本国内で見られる場所があるということを、当ブログでも以前紹介しました。
超行ってみたい場所の一つです。
みうらひらくの日曜美術館開館!?ついに今夜、私が一番行ってみたい美術館を大公開…どう評価するかは各人の「自由だ〜!!」
タイトル長っ。

砂の美術館では…怒りだとか悲しみだとか、いわゆる負の感情面がほとんど表現されていないことに違和感を抱いたのです。
最も端的に感じられたのは、2015年の企画…砂で世界旅行・ドイツ編においてヒトラーの存在がスルーされている点でした。
この余りにも有名な独裁者の存在を抜きにして、ドイツの歴史を辿る旅ができるとはどうしても思えません。
そして、実際に展示を目にした南米編においても、率直に言ってコロンブスのアメリカ到達、先住民族の表現の仕方には疑問…というか物足りなさを感じました。
オリンピックイヤーの南米だもの、カーニバル状態でGO!!って話じゃ…やはり余りにも、ね。


とは言え、砂で表現するという芸術のスタイルには大きな可能性があると感じました。
絵画にはない立体造形の強み、その他の彫刻の類にはない親しみやすさとわかりやすさ。
そして自然にも優しいという謳い文句は(正直自分はあまり好きではないのですが…)、時代のニーズにはマッチしていると言えるでしょう。
当代世界最高峰のアーティストたちが作り上げた作品たちの中には、非常に繊細でありながら、並々ならぬ迫力を感じさせるものがありました。
だからこそ、その強みを生かして、アンタッチャブルとされている…歴史の闇の部分に光を当てて欲しいと感じたのです。

闇…究極的には、死。
今の放送コードでは、死体って基本的に放送しないと思うんだけど…昔はもう少し緩かった気がする。
ある程度衝撃的だったからこそ、記憶しているのかもしれないけど…ルーマニア革命の際のチャウシェスク大統領銃殺シーンなんて、今は恐らく放送されないんじゃないか??
昨今の自主規制の嵐には、私は基本的には懐疑的。
モザイク処理なんてしちゃうからこそ、向こう側を見たい欲求が高まって…人が死ぬところを見てみたかったとかいうアホが出てくるんじゃないか??
そういう声を理解できないと言えば嘘になります。

見たくないものを見ない権利もある。
何もかも報道・放送することが必ずしも是とならないという理屈もわかる。
しかしながら”隠す”という行為はあらゆるケースにおいて、基本的には間違いを生み出す根源になりえます。
これは間違いないだろう。

砂の美術館の話に戻すと…事実を事実として表現しても、あるいは創作のモチーフとしてある程度改変しても、それは当然自由で構わないと思うわけです。
たとえば大量虐殺や、大災害などの目を覆いたくなるようなシーン。
そうした悲劇の場面を、仮に本気で風化させるべきでない…忘れてはならないと主張するのならば。
人間の記憶という、きわめて当てにならないものに期待するだけでなく…形として遺すことには大きな意義があるのではないでしょうか。

喜びや楽しみだけが人生ではなく、現実でもありません。
世界はそれだけじゃない。
若干ネガティブなまとめに感じられるかもしれませんが…結果としてポジティブであらんがため、こうしたスタンスは重要だと考えております。
本日はこんなところで。
また明日!!